カテゴリー「コラム」の記事

☆「領有」表現の回避★

7月13日付け読売新聞に、『竹島「領有」表現避ける、韓国に配慮…学習指導要領解説書』の記事が出ていました。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20080712-OYT1T00807.htm

どうも、『韓国側への配慮を示す方向で最終調整に入った』ということのようです。
呆れてものが言えません。

この国の政治家は一体領土というものを何だと思っているのでしょうか。

そもそも、竹島は、韓国が実行支配している領土です。
相手国が実行支配している状態で、日本が国際司法裁判所へ提訴するという方法をとろうとすれば、竹島問題を『紛争』 状態にする必要があります。

両国間に話し合いでは解決できない『紛争』があって、それを解決するために国際司法裁判所の判断を仰ごうというのが、 基本的な流れのはずです。

これを、相手国へ「配慮」するなどということは、自らその手段を絶つ行為にほかなりません。

通常、実行支配している国は、「領土問題などない」「紛争など存在しない」と主張します。それは、 そうしないと第三国の干渉を招くからです。

韓国は、国民全体でわざわざ「紛争」状態にしてくれているのです。
本気で領土問題を解決するつもりがあるのであれば、一時的な両国関係の悪化は不可避ですし、むしろ当然のことです。

それをしなければ、相手方の実行支配する領土を取り戻すことなどできません。

今回の日本の政治家の声を聞いていると、領土問題を解決する気など全くないということがよくわかりました。

 

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☆参入規制★

日本経済新聞の社説に、「タクシー規制強化は疑問だ(7/8) 」との主張が記載されていました。

http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20080707AS1K0700107072008.html

私も、直ちに需給調整を行うことには、反対です。
そもそも、運転者の過剰労働が問題だというのであれば、労務管理の状況を厳しく調査すべきです。

単に需給調整を行うというのでは、 それによって運転者の待遇が改善されると言うよりはむしろ既存の会社側の利益を守ることにしかならないのではないでしょうか。

実際、夜タクシーを使おうとすると、結構捕まらないことがありますし、乗り場は長蛇の列になっていることもしばしばです。

しかも、近距離だと、さすがに乗車拒否こそはしませんが、「ついてねぇなぁー」などとぶつぶつ言ったり、そこまでには至らなくても、 「客待ちに1時間まったんですよぉー。」などと愚痴をこぼす運転手は、実際にかなり存在しています。

また、道を知らない運転手も現実には存在しています。かつて、急ぎの用で文京区役所に行く必要があったときなどは、 市ヶ谷から乗ったのですが、文京区役所を知らないどころが、東京ドームの場所すらわからないという、信じられない運転手もいました。

そんな現状を考えると、安易に規制を求めるのではなく、業界にはかなり改善して頂きたいと思います。

その上で、仮に規制を行う必要があるとすれば、そのときは、業界への参入規制という形ではなく、二種免許の取得自体を厳しくし、 厳格な更新制にしてほしいと思います。少なくとも、ロンドンのタクシーのように、地理の試験程度は課してもらわないと、 安心してタクシーに乗ることすらできません。

加えて、タクシーも運転者の技能に応じて、いくつかのグレードに分けてほしいですし、また、乗り場も別にして、 だれの目にも明らかなように、区別して頂ければ非常に有り難いです。

事前規制から事後規制への流れ自体は、誤っていないと考えております。

 

 

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☆外国人看護師の受け入れ★

外国人看護師の受け入れがようやく始まるようです。
少子高齢化の状況にもかかわらず、介護・看護の領域においてはかねてより、労働力不足が深刻な問題とされてきました。

労働力不足を解消するための手段として、外国人看護師の受け入れは、非常に期待されているところです。今回の受け入れは、EPA協定に基づくものですが、外国人看護師の受け入れについては、経団連の主張と看護協会の主張とが真っ向から対立しています。

両者の主張を簡潔にまとめると次のようになります。

1.経団連の主張
    ・海外の看護師資格者に対する国家試験の受験資格の緩和・見直しを行う
    ・短期間の研修としての就労のみ認められるという制限を早急に撤廃すべき

2.看護協会の主張
    ・日本の看護師免許を取得することが条件
    ・十分な日本語の能力を有すること
    ・日本人看護師と同等以上の条件で雇用
    ・看護師免許の相互承認は認めない

これに対して、日本とフィリピンとの間で締結された日比経済連携協定の内容は、次の通りです。

    ・国際厚生事業団(JICWELS)を唯一のあっせん機関とする。
    ・受入施設で就労しながら国家試験の合格を目指した研修を行う。
     (但し、フィリピンでの看護師資格を有した者に限る。)
    ・在留期間は資格取得前3年。不合格の場合には、帰国。
    ・合格後は在留期間3年。但し、更新回数の制限はなし。

何か両者の間をとったような内容になっています。
とはいえ、利害の対立する問題を解決する為の最初の導入としては、多少はやむを得ないのではないかとも思います。

ただそうは言っても、やはり問題点があることは否定できません。特に、来日後3年以内の資格取得が在留更新の条件となっていますが、これは、現実的には極めて高いハードルです。

確かに、看護師の国家試験の合格率は非常に高いものがあります。しかし、それはあくまでも対象が日本人だからです。外国人であっても、日本語で試験を受験しなければなりません。

そもそも、看護学校の就業年数自体が3年ですから、英語で受験できるようになるのであればともかく、日本に来て3年以内に漢字を含む日本語で試験を受験し、かつ合格するというのは、至難の業です。

私は、せめて英語での受験を認めるべきだと考えています。このような意見に対し、看護協会は、看護業務はチームとしての業務であるため、意思疎通が極めて重要であると主張しているようです。

確かに、そのような側面があることは否定しませんが、逆に英語ができる看護師のニーズというものもあるのではないかと思います。例えば、これだけ多くの外国人が来日し滞在している以上、外国人向けの病院というものもあっても良いのではないかと思います。

現実にも、留学経験があり、英語が堪能な日本人医師は非常に多く存在しています。とすれば、英語が出来る医師と外国人看護師からなる病院があってもよさそうなものです。

看護協会の主張するように、コミュニケーションを問題とするのであれば、むしろ日本人看護師の方に英語を学んでコミュニケーションがとれるようにするというのも一つの方法でしょう。

コミュニケーションの問題は、非常に容体の急変が予測されるような分野、救急であるとか産科、小児科のような領域では、日本人と同様のコミュニケーションがとれないと危険性があるというのは、確かにその通りだと思います。

ただ、それは、資格取得後の人員配置や採用において考慮すればよいことであって、なにも資格取得段階で制限する理由とはならないのではないかと考えます。

またその他にも、今回の受け入れについては、やはり問題点が存在しています。その一つに、あまり言われておりませんが、外国人労働者の日本に対する過剰な期待をあげることができます。

外国人看護師は、来日の時点では看護助手としての扱いになります。とすると、給与水準としては、高卒の新卒学生程度とならざるを得ません。この場合の給与は、16万円から20万円程度でしょう。

フィリピンの看護師の給与については、私は存じ上げておりませんが、タイの看護師の給与で考えると、大体日本円で4万円から5万円程度になるかと思います。この場合、日本での給与は、3倍以上ですので、魅力的な金額かも知れません。

しかし、日本での生活には多くのお金が必要になりますし、また、家族への仕送りの必要もあるでしょう。そうなると、生活レベルは、極めて低いものにならざるをえません。そのうえ、日本でのサポート体制がきちんとしていなければ、食文化や生活洋式の違いにとまどうこともあるのではないかと思います。

もし、その違いにとまどい、また、日本人の中にあるアジア系の人々に対する潜在的な差別意識に接した場合、日本に対してどのような印象を持つでしょうか。場合によっては、日本に対する嫌悪感すら抱きかねないと思います。

また、特にインドネシアからの受け入れの場合、イスラムについてきちんと理解している日本人がどれほどいると言えるのでしょうか。その場合の、軋轢には計り知れないものがありえます。

私は、外国人看護師の受け入れは急務の課題であると考えておりますが、そのためには、まずはきちんとした受け入れ態勢が必要だと思います。この問題を利害の対立する両当事者の間の妥協で安易に片付けてしまうことに、非常な危惧感を覚えずにはいられないのです。

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☆スーダンPKO★

7月1日付けの朝日新聞の社説に、『スーダンPKO―腰が引けすぎていないか』とありました。

http://www.asahi.com/paper/editorial20080701.html

私も、それほど、反対するものではないのですが、正直申し上げて朝日新聞がこのようにいうのには、違和感を覚えます。

そもそも、朝日新聞は、PKO関連法案には一貫して反対していた新聞社です。
そうであるならば、一度、自分たちの主張の間違いを明確にして頂きたいと思います。

自分たちが声高に主張していたことを、いつの間にか引っ込めてしまうというのでは、発言に信頼を持つことはできません。

もちろん、時代の変遷に伴い、主張が変わること自体は否定致しませんが、そうであるとしても、なぜ変わったのか、 当時の状況と現在の状況とにおいて、どこが異なっているのかという点を明確にしなければ、全く主張を信頼することはできません。

15年以上前のあの反対キャンペーンは一体何だったのか、単なる世論迎合であったとすれば、デマゴーグのそしりは免れないと思います。

 

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☆諫早湾干拓判決★

判決の中に、「農業生産が漁業被害に優越する理由はない」とされているようですが、このような言い方を裁判所が行うことが、妥当であるかについて疑問があります。
まだ、判決をきちんと読んだわけではないので、詳細は把握しておりませんが、新聞報道を前提に意見を述べさせて頂きます。

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20080628-OYT1T00771.htm

本件訴訟の被告は、国です。
ただ、実質的に不利益を被るのは、入植した農家です。
農家の利益と漁民の利益が対立しているという構図でもあります。

とすると、両者の被る具体的な利益を衡量した上で、結論づけないといけない問題ではないかと思います。

干拓地は、干拓が完了したからといってすぐに農業ができるようになるものではありません。淡水化によって、徐々に塩分を抜いていかないと、そもそも作物は育ちません。

その過程において、農家は、いかなる種目の作物をどれだけ作付けをするかということについて、創意工夫し、非常な努力を行うわけです。

その農家の努力を一言で、「農業生産が漁業被害に優越する理由はない」と片づけられてしまっては、「農家の立つ瀬」はありません。

このような論法が成り立つのであれば、一言で『特定地域における「農業生産が」国民全体の利益「に優越する理由はない」』とも言えることになってしまいます。はたしてこの文言を成田でも言えるのでしょうか。

成田空港の問題は、もし自分が当時の農民の立場であったとしたら、絶対に反対しているでしょうし、相当な活動を行っていたであろうと思います。非常に困難な状態で理想的な農業を目指し入植し開墾してようやく軌道に乗り始めた矢先に、国から一方的に土地を取り上げられたわけですから。(ただ、現在の状況下で、活動を行うことに対しては、全く賛同はいたしませんが・・・。 )

今回の開門命令も、農家の不利益を単純に切って捨てているという点では、成田と同じ過ちを犯すことにもなりかねません。

実質的に利益の対立する当事者の具体的不利益を、冷静且つ客観的に検討して頂きたいと思います。

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☆諫早湾干拓(防災、交通の側面)★

諫早湾干拓事業による防災上の利点も見過ごすことはできません。
長崎県は、非常に雨の多いところで、長年水害に悩まされてきていた地域です。

特に、諫早湾は形がデルタ上になっており、高潮の被害も多大なものでした。
この干拓事業により、高潮の被害から解放されるという地域住民のメリットは否定できません。

とすると、地域住民が水害から解放される為に公共事業を行う、これ自体なんら非難されるべきものではないはずです。

都会でも水害対策にどれだけの費用を使っているというのでしょうか。環七の地下に広大な遊水路を建設しているではないですか。都会では人口が多く、被害が甚大だからかまわないけれども、田舎ではその必要がないとでもいうのでしょうか。

確かに、被害を被る人の数によって優先順位が異なるというのは、ある意味、効果的な税金の使用という観点からは、当然の事なのかも知れません。しかし、本件では、防災の為だけに建設したのではなく、農業基盤の維持という国民全体の利益につながる事業に付随した利益として考慮されたものです。

決して、優先順位が低いとは言えません。また、堤防上には、道路が造られますから、これによって交通ネットワークの整備も図られることになります。

干拓事業には、メリットがあるのです。ただ、その費用として、どこまでかけるべきかは高度に政治的な問題として、判断せざるを得ないとは思います。

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☆諫早湾干拓(農地の必要性)★

開門調査を命ずる判決が、佐賀地裁で出ました。
諫早湾干拓事業は、『無駄な公共事業』の代名詞のように使われております。

私自身、費用を押さえることができれば、決して無駄な公共事業だとは考えておりません。そもそも、『無駄な公共事業』 と主張している人たちは、どれだけの内容を理解した上で、声高に無駄だと主張しているのでしょうか。

もし単純に、離農者が多い状況でかつ耕作放棄地が多いにもかかわらず、 このご時世に農地を作る必要があるのかという程度のことであれば、きちんと調べた上で批判して頂きたいと思います。

離農者が多いのは、高齢の為、農業ができなくなるケースが多いからですし、また、耕作放棄地の多くは、 機械化及び大規模化が困難な中山間地の農地です。

日本には平野が少なく、広大な農地はあまり存在していません。その為、機械化自体が困難で、 農業自体の経営効率の向上が遅れていました。

実際、日本の農業が衰退しているのは事実ですが、大規模な農地を有する北海道では、農業が産業そして観光資源として、 確立されております。

ようするに広大な農地で大規模経営ができれば、日本においても農業は産業として立派に成立するのです。よくフランスが、 農業国として成功している国として紹介されますが、それは、国土こそ日本とあまり変わりがありませんが、平野の面積が全く違うのです。

日本は、国土の8割が山間部で平野は2割にすぎません。そもそも、日本には大規模な農業を行う為の用地が潜在的に不足しているのです。

大規模な農地がないから経営の効率化がはかれない、また優良な農地がないから、新規に農業に参入することもできない、 それが日本の農業を衰退させている一つの要因になっています。

5年から10年のうちに、高齢の為、離農する農家が爆発的に増加します。日本の食物自給率はカロリーベースで3割を切っていますし、 しかも、大豆、トウモロコシ、ジャガイモ等の価格高騰がそれに追い打ちをかけています。

優良かつ広大な農地の確保、これは現在の私たちにとっても、急務の課題なのです。


 

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☆医師不足★

本日の新聞に、『医学部定員増「過去最大水準に」 骨太08、閣議決定へ』という記事が載っていました。
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200806260301.html

医師が不足しているから、定員を増やそうというのは、別に間違った政策とは思いませんが、結果がでるのは15年以上も先の話です。医学部を卒業すれば、直ちに医師として使えるかというと、そんなことは決してありません。

特に、外科系の領域はある程度の経験が要求されますので、一般には10年くらいの臨床経験がないと使い物にならないとすら言われています。

医師数が増えたからと言って、それで解決と考えているのだとすれば、旧陸軍の上層部が赤紙で集めただけの新兵を、数字の上でそのまま兵力として計算し、作戦を立てたのと同じ過ちを犯すことにもなりかねません。

そもそも現状における最大の問題点は、医師の偏在化の方です。
科によっては、社会的に必要とされる数を満たしていない領域が多く存在しています。
それは、ご承知の通り、産科や小児科、救急といった分野です。

医師の立場に立ってみれば、このような現象が生じるのは当たり前というか当然という気も致します。
深夜においても、突然の様態の変化に対応しなければなりませんし、しかも、訴訟リスクも高いと来ています。
それでいて、給与が他の科に比べて高いかと言えば、そんなことはありません。

特に総合病院などでは、特定の科に勤務する医師のみの給料を上げることに対して、相当な抵抗があるのも事実です。
結局は、横並びにならざるを得ません。

給料はほとんど変わらない上に、激務かつ訴訟リスクもある、誰が好きこのんで、そんな領域を目指そうと思いますか。
人間は理想だけでは動きません。困難に相応するだけのインセンティブがない限り、この偏在化の問題は避けて通ることは出来ないのです。

給料を上げることが、種々の要因から困難であるのだとすれば、少なくとも訴訟リスクを回避するような手だてを国は講じるべきです。

必死の救命にも関わらず、不幸な結果が生じてしまった、その場合、一番つらく苦しいのはご本人でありご家族であることは間違いのない事実でしょう。しかし、診療にあたった医師も、ひょっとしたら自ら力不足の為に、そのような結果が生じてしまったのではないかと、精神的に自分自身を責めざるを得ないと思います。

そのような医師に対して、ご本人やご家族が責任を問いたくなるのは致し方ないとしても、国や行政が、医師の側に対しどれだけのケアを行っているというのでしょうか。不幸な結果が生じれば、警察が来る、弁護士が来る、そして、役所や裁判所からも呼び出される、その流れは医師にしてみれば、まるで自分が犯罪者にでもなった感覚でしょう。

もちろん、誰が考えても、とんでもないようなことをやって、不幸な結果が生じてしまった場合にまで、免責すべきだとは思いませんが、通常の診療行為の結果生じた不幸な結果に対しては、国や行政の側もある程度の配慮を行うべきだと思います。

そうでなければ、誰も困難な領域に進んでいこうとは思いません。
その結果、困ることになるのは、一般の国民全体なのですから。

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☆死刑の執行についての意見★

朝日新聞の見出しに、『死刑確定から執行 期間大幅短縮に鳩山法相「たまたま」』と載っておりました。

その中で、『07年までの10年間で「約8年」だった確定から執行までの期間が大幅に短縮された』とあります。

しかし、刑事訴訟法475条2項には、「(法務大臣の)命令は、判決確定の日から六箇月以内にこれをしなければならない。」とあり、 そもそも、約八年間もの期間がかかっていたことの方が、法律に違反していると言えなくもありません。

その意味では、法務大臣が裁判所の出した判決に従い、粛々と執行していくというのは、なんら責められるべきものではないはずです。

もし、法律に従って、死刑の執行命令を出した法務大臣を責めるのであれば、まずは、国会で議論して、 死刑自体を廃止するようにするのが、本来の筋であると思います。

ただ、私自身、死刑の存置については、正直悩みがあります。それは、一般的な死刑廃止論者の立場と言うより、むしろ逆で、 なんら自己の行為について反省もしていない人間を死刑にしたところで、果たして、それで良いのだろうかという単純な感覚です。

被害者の方や残されたご家族は非常に無念だと思います。死刑囚が真に自己の行った行為について反省し、自らの命をもって償おう、 それしか、被害者に対する謝罪はないと考え、執行に望むというのであれば、死刑を存置することにも意義があるのかもしれません。

しかし、全く自らの行為について反省もせず、社会が悪いと騒いでいる人間を死刑に処したところで、どれほどの意味があるのか、 その点については、正直、悩みがあります。

そんなある意味「価値のない」人間を、この世から消し去ってしまって、それですべて解決、被害者の方や残されたご家族に対して、 『死刑になって良かったですね。』と単純に言ってしまうような輩が出てきてしまうのではないかと、危惧せずにはいられません。

ただ、そうはいっても、被害者の方やそのご家族が、犯人がこの世に現に存在していること自体が耐えられない、そして、 その気持ちを幾分でも慰謝する上で、死刑の執行が必要だというのであれば、やはり、死刑を存置し、法律に従い、 粛々と執行していくことも必要ではないか、その点においては、死刑を存置する意義もあるのではないかと思います。

被害者の方やそのご家族の気持ちが、何よりも優先されるべき問題であると私は考えております。

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☆羽田からの国際線★

夜間に羽田から長距離の国際線の離発着がいずれ認められることになりそうです。
これは、非常にメリットがあります。

日本の国際線の現状はどうなっているかというと、韓国の仁川国際空港、台湾の桃園国際空港、そして、香港、上海が事実上、 ハブ空港と化してしまっています。

その理由は、簡単です。国内線から国際線への成田の乗り継ぎが悪い上に、成田を経由するルートは、 チケットが一般的に高額になってるからです。

その上、地方空港が国際空港と名乗りたいだけに、韓国便を飛ばしていますので、結果として、地方から欧州や米国へ行く場合には、 仁川経由が便利になっています。

本来、成田は首都圏の国際線需要をまかなうだけでも十分で、そもそも地方からの乗り継ぎは考えられていませんし、 地方からの乗り継ぎは、主に関西国際空港を利用してもらうという腹づもりだったように思います。

ただ、実際は、関空も国内線の便が、時間帯によってはかなり少なく、かならずしも便利とは言えません。もし、伊丹が廃止となって、 関空を中心に関西への国内線が集中したとすれば、関空をハブ空港として有効的に活用するという可能性もないではないですが、 それも実際的ではないでしょう。

すると、やはり夜間の羽田の活用は魅力的です。夜間の発着であれば、仕事が終わってからでもいけるので、 時間を効率的に利用出来ますし、また、日本中どこからでも、午後発の便で出発して、羽田での同日乗り継ぎが可能になります。

やはり、利用者の利便性ということを考えれば、羽田は日中は近距離の国際線を、夜間は、距離の制限をなくして、 長距離便を含めた運用をしていくのが一番ではないかと思います。

仮にそのような運用をしたとしても、成田は夜間は実際には運用されていませんし、昼間は羽田は国内線で一杯で、 国際線を飛ばす余裕がないのですから、共存していけるはずです。むしろ、空港間で競い合わせた方が、 利用者の利便性は増していくのではないかと思います。

 

 

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☆たまにはまともなことも・・・★

5月16日付けの朝日新聞の社説です。
http://www.asahi.com/paper/editorial20080516.html

高齢者医療について述べられています。
朝日新聞にしては、かなり珍しく、至極まともなことを言っているようです。

いつもこれくらいきちんと「筋の通った」ことを言ってくれれば良いのですが・・・。

とはいえ、「市でもなければ県でもない広域連合というのも分かりにくい。」というのには、少しばかり、異論があります。

確かに、わかりにくいのは、そうかもしれません。
ただ、市や県を単位として、医療の区域を単純に分けてしまうと、人口の偏在、道路状況、その他、病院の偏在がある為に、 現実からかけ離れた政策がとられてしまう畏れがあります。

例えば、病気になったときに、必ず同一市町村内の病院に行かれますか。
市や県を超えて、病院に行くのは、ある意味、当たり前というか、市内か否かなどを考えて、通院しないのが通常だと思います。

一般的には、そのような現実があります。この場合に、市ごとや県ごとに、自己の行政区域内を基に統計をとって、分析をしてしまうと、 現実を見誤ってしまうことにもなりかねません。

一例を挙げれば、ある市町村の特定のエリアには病院が存在していない、にも関わらず、そのエリアには、 それなりの人びとが生活しているという分析結果が得られたとします。

このエリアから一番近い病院まで、車で1時間以上かかる、これは大変だ、とその市町村では、大騒ぎになるでしょう。

やがて、病院を建設しなければ、いや、道路を整備しなければという話が、次々と・・・。

しかし、実際は、そのエリアから車で15分ほどの所には、立派な病院が存在していました。ただ、その病院は、 隣の県の別の市にあった為に、その市の統計には表れていなかったのです。

そんな馬鹿なと思われるかも知れませんが、書類に現れたデータを基に、現地の調査を行うことなく、政策を立てると、 こんな笑い話のようなことが現実に起きてしまう、それが、ある意味、この国の怖ろしいところでもあります。

 

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☆宇宙基本法★

自民、民主、公明の3党共同提出の法案が衆院内閣委員会で可決されたとのことです。
国の安全保障に関わる法案を、与野党の合意で提出、可決されたということは、健全な国のあり方だと思います。

与党が作った原案を、野党がチェックし、その行き過ぎに歯止めをかける、これが、 議会制民主主義の本来の姿ではないかと考えております。

ところで、本日の各社の社説です。

読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20080510-OYT1T00176.htm

産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080510/plc0805100326006-n1.htm

朝日新聞
http://www.asahi.com/paper/editorial.html

読み比べて、判断してくださいね。

その上で、朝日新聞の社説ですが、

「基本法が成立すれば、自衛隊が直接衛星を持ち、衛星の能力を一気に高める道が開ける。それにとどまらず、 将来のミサイル防衛に必要な早期警戒衛星を独自に持つことができたり、様々な軍事目的での宇宙空間の利用が可能になったりする。」

はて?どこが問題なのでしょうか。(何を言いたいかはわかりますが・・・。)

「 衛星による偵察能力の強化は抑止力の向上につながるという議論もあるだろうが、 日本が新たな軍事利用に乗り出すことは周辺の国々との緊張を高めないか。巨額の開発、配備コストをどうまかなうのか。 宇宙開発が機密のベールに覆われないか。そうしたことを複合的に考える必要がある。 」

おきまりの「緊張」論です。

軍事費が2桁の伸びを示しているお隣の国や、いついかなるタイミングでミサイルを撃ち出すかわからない「国」がすぐ近くにあって、 自国だけでは、それに対処する軍事的能力を持ち得ていない国家としては、外交努力をするにせよ、正確かつ早急な情報収集は不可欠です。

しかも、そもそも、たとえ同盟国であったとしても、外国政府から情報には、その国独自の利益を考えた上で、取捨選択がなされており、 すべての情報がストレートに入ってくるわけではありません。

出す情報、出さない情報の取捨選択がなされるだけで、事態に対する分析結果が大きく異なってきます。

日本が独自に、相手方の動きを独自に早期に察知し、紛争回避の方策をとりうる、 その為にも偵察衛星は必要不可欠な存在であると言えます。

 

 

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☆衆愚政治★

民主党が後期高齢者医療制度を廃止する法案を、参議院に提出しようとしているようです。廃止するというのも、一つの方法ではあります。

政党の政策として掲げることは、結構ですし、どんどん議論してよりよい制度にしていただきたいものです。

ただ、「廃止」を主張する以上、誰の目にも明らかな国保の破綻をどうやって防ぐつもりなのか、その点は、きちんと明確にしていただきたいと思います。

月々の負担が増えた社会的弱者が多く存在している、年金からの天引きで生活が苦しくなった、高齢者の切り捨てだ等々の「感情的な」意見を、そのまま受けて、けしからん、廃止だと叫ぶのは、政権を目指す政党としては、極めて無責任なことです。

そもそも、社会保障制度は、公平性に加えて、個別事案に応じた不都合性を是正しようとすればするほど、複雑且つ分かりにくくなるものです。

一般国民が制度を理解できずに、感情的な反発をすることはある意味仕方のないことです。しかし、その国民の「無知」に乗じて、或いは、「無知」を利用して、政争の具にしようなどということは、それこそ、デマゴーグ、衆愚政治の最たるものに他なりません。

無論、この制度が完全なものとは考えておりません。ただ、大枠としての方向性としては正しいと思っております。大枠としては維持しつつも、不都合なところは、修正していく、それで制度自体をよりよいものにしていくことが、なによりも大切なことではないかと思います。

それにしても、今回の制度、5割が公費による補助、4割が現役世代からの援助、1割が高齢者の負担というのが、大枠です。

この大枠が駄目だというのであれば、一体どうしろというのでしょうか。国からの補助を増やすにせよ、現役世代からの援助を増やすにせよ、勤労世代への負担が増大することには変わりがありません。

少子高齢化の進む中、若年層への負担を増加させることが、現実的とは到底思えないのですが・・・。

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☆後期高齢者医療制度★

後期高齢者医療制度について、一部センセーショナルな報道がなされているようですが、この制度自体は、必要な制度改革であることは間違いありません。

すぐに、制度改悪と飛びつくのではなくて、もっときちんと調査して、冷静に報道してもらいたいものです。

では、なぜ、必要な制度改革であったかというと、その最大の理由は、現状のままでは国保が破綻してしまうからです。

厚生労働省のホームページを見ても、なぜ、必要であったかがぼかされていますが、必要性の最たるものはここにつきます。

高齢者の医療費が非常にかかってしまう、このことは、多くの方にもご理解いただけると思いますが、その高齢者の殆どが加入する保険が国保だったからです。

高齢化社会の下では、仕事を辞めてからも、長い人生が待っています。その間に、入る保険は、今までであれば、国保でした。しかし、高齢者の割合が増えてくると、自営業者を中心とする国保では、増え続ける高齢者を支えていくことができません。

また、国保では、市町村によって給付水準が異なっており、高齢者の割合の多い、地方農村部ほどその負担が重くなっていたという現状があります。

そこで、高齢者の医療制度を将来にわたって支えて行くために、現役世代の加入している各種健康保険からの拠出を受け、国からも、半分を拠出してもらい、そのことによって安心で地域格差のない平等な医療を受けられるようにしようというのが、本来の目的です。

決して、高齢者を切り捨てるようなものではありませんし、この制度の導入自体は、断じて間違っているものではありません。

細目的な運用の点で、問題があるのかも知れませんが、どこが問題なのか、報道機関は、やみくもにセンセーショナルな報道をするのではなく、問題点をきちんと呈示した上で、きちんと議論していただきたいと思います。

また、このような長期的な制度設計に関わる問題は、政局にするのではなく、与野党できちんと議論して、問題点を整理した上で、国民に呈示していただきたいものです。民主党自身も、この制度改革自体には、当初反対していなかったと思うのですが・・・。

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☆ネット上の情報★

ここ最近、硫化水素自殺が相次いでいます。

自殺方法がインターネットで簡単に調べられるという話が出ていましたので、一体どれくらいでその情報にアクセスすることが出来るか、試しに調べてみました。

すると、さすがにグーグルやヤフー等の検索サイトでは、直接的にはアクセス出来ないようです。

しかし、この手の情報を探すのには、検索の仕方にコツがあります。
そこで、直接的でない方法で、検索してみると、やはり情報に行き着いてしまいました。
検索を始めて、約5分です。

これは、難しい問題です。もし、完全に情報をシャットアウトしてしまうとなると、ネット上を監視して、自動的に関連情報を削除していくという方法をとらざるを得ません。しかし、それでは、憲法上保障された表現の自由に真っ向から反する事になります。

現状では、プロバイダが自主的に監視して、不適切な内容を発見した場合には、書き込んだ当事者の了承を得て削除するか、または、規約に基づき削除するしかないのが現状だと思います。

この場合、どうしてもタイムラグが生じてしまいます。また、その間に、雨後の竹の子のように出てくるものを一つづつ潰していくしかありません。

となると、やはり、情報には情報と言うことで、自殺を思いとどまらせるような情報を広げていくのが、最良の手段なのではないかと思います。

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☆人権問題の矛先★

ヨーロッパが人権問題に対して敏感なのは、ナチスの台頭を防げなかったという歴史にあります。特に、今回の抗議行動は、オリンピックがナチスの台頭を許してしまったことに対する反省もあるのではないかと思います。

とすれば、ヨーロッパ諸国(特にナチスの占領を受けたフランス)が、この問題で妥協することはあり得ません。

また、逆に、中国にとっても、チベット問題は、共産党の独裁体制を揺るがしうる大問題です。いくら国際社会が騒いだとしても、自らの正当性を揺るがすようなことをするはずがないでしょう。

とすると、膠着状態が生じてしまったら、どうするか。
当然、西洋社会に対する揺さぶりをかけるはずです。

その矛先は、無論、日本です。
いずれ、過去の「歴史」問題を、持ち出してくるでしょう。

その際、フランスをはじめとするヨーロッパ諸国に対して、日本へ矛先が向くような方法を仕掛けてくるはずです。

北朝鮮に対して、日本が、拉致問題で妥協しない姿勢を示したときに、なぜか、アメリカで「慰安婦」問題が出てきたのと同じ構造です。

私は、今回は、靖国がらみだと考えています。
かつて、ヨーロッパを放浪していたとき、フランス人と議論したことがあります。

ほとんどのヨーロッパ人は、靖国神社のことは知りません。
では、知っている人は、どのような理解をしているかというと、「靖国神社は戦前のファシズムを賞賛する施設である」という理解です。

靖国神社のことを知っているフランス人は、それこそ、「靖国神社はヨーロッパで言うとネオナチの施設のようなものである。そんな象徴的な施設に、一国の宰相が参拝するなどけしからん。」という風に考えています。

これは、とんでもない誤解です。きちんとした広報活動を行ってこなかった外務省にこそ責任があります。

そんな折り、映画「靖国」に対して、国から助成金が支出されている・・・。

この映画の内容については、未だ見ておりませんので、批評は避けます。

ただ、靖国神社に対して、諸外国の人々に誤解を生じさせるようなものであるとするならば、その様なものに対して、助成金が支出されたという事実は、やはり問題だと思います。

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☆「護憲主義者」へ★

チベット問題に関して、一言。
この問題に関して、普段、平和だ、護憲だと主張している人たちの活動が全く見えてきません。

一体なぜ?
まぁ、日本の平和主義者、護憲主義者の殆どが、似非であり、ダブルスタンダードなのですから、当然といえば当然ですが・・・。

本来、護憲主義者こそ、この問題について大問題としなければならないはずです。

日本国憲法の前文には以下のような記述があります。

「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専従と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和の内に生存する権利を有することを確認する。」

いわゆる護憲主義者は、『自衛隊は違憲である、自衛の為であろうとも一切の戦争は行うべきではない。』と主張し、では、いかにして、国民の生命財産を守るのかという問いに対しては、この全文を根拠に、『諸国民の公正と信義に信頼して』話し合いで解決すると主張しています。

(そもそも、その結果が、今のチベットの現状なのですが・・・。)

では、『諸国民の公正と信義』とは何か、それこそが、人権に対する考え方、そのものなのです。

人権に関しては、内政干渉ということが妥当しません。確かに、一方で、このことが西洋社会の価値観の押しつけという側面がないとは言いませんが、現在の国際社会における共通の考え方になっていることは、否定できないでしょう。

国際社会は、人権問題だからこそ、理由の如何を問わず、圧力をかけることができます。
その圧力によって、他国を不法に侵略しようとする国家があった場合にも、その行為を断念させうることが可能となりうるのです。

とすれば、仮に軍隊を持たないという選択をして、国民の生命財産を守ろうと言うのであれば、人権問題については、どこの国よりも、強く国際社会で主張しなければなりません。

もし、他国で行われている人権問題に対し、見て見ぬ振りをするというのであれば、どこの国が、日本が他国から侵略された場合に、非難の声を上げるというのでしょうか。

もし、侵略する国家があったとした場合、当然、その国家は、自衛のため、或いは、国内問題と主張するでしょう。そのときに、いくらそんなことはないと言っても始まりません。その場合に、世界中が一致団結し、抗議の声をあげうるとすれば、それは、人権問題としてしかあり得ません。

本当に、護憲主義者が、『諸国民の公正と信義に信頼』するというのであれば、このチベットの人権問題に対しては、それこそ、命がけで活動を行うべきであると、私は考えます。

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☆ビラ配り判決★

本日の読売新聞の社説に「ビラ配り有罪 一つのルールが示された」と出ていました。
私も、読売新聞の社説の意見に同調します。

この事実関係をきちんと把握せず、表現の自由に対する侵害と声高に叫ぶ人間には、バランス感覚が欠如しています。

この事件では、自衛隊員の家族の暮らす官舎に、イラク派遣反対の意思表示のビラを投入したという点を、見過ごすわけにはいきません。

社説によると、『「殺すのも殺されるのも自衛官です」などと書いてあった。』とあります。

実際に派遣される自衛隊員の家族が目にした場合に受けるであろう苦痛と、 限定された場所における限定された表現方法が制限されることによって受ける不利益を、通常の感覚で比較すれば、 前者の方が大きいことは明らかです。

家族にしてみれば、遠くの外国で、現地の状況がよくわからない中、仕事に従事するであろうことを思うと、 その心配さは並大抵のことではありません。

その心配さを表現の自由の名のもとに、煽ることが許されて良いはずがありません。

心配している家族に対して、『殺す』『殺される』という文言を当てつけるなど、言語道断です。

ビラを投入した「市民」は、『心配でしょ。だから反対しましょうね。』とでも言いたかったのかも知れませんが、そんなことは、 独りよがりの、お節介、無神経以外の何ものでもないことです。

とにかく、反対することは、かまいません。ただ、それは国会であるとか、集会であるとか、 或いはインターネットを使った意思表示で行えば良いだけのことです。何も、現場に派遣される自衛隊員の家族を巻き込む必要はありません。

私は、以前から、非常に強く違和感を覚えていることがあります。

派遣が決まった自衛官は、国の命令で危険を伴う任務に就くのです。その人たちを、 国民の代表機関である国会が送り出すことに決めてしまった以上、我々国民は、暖かく尊敬の念を持って、送り出す義務があります。

もちろん、くどいようですが、反対するなと言っている訳ではありません。反対活動に、現場で危険な任務に就く、 彼らを巻き込むなと主張しているのです。反対は、国会での論戦、インターネットでの意思表示、集会、デモ、何でも行って頂いて結構です。

ただ、粛々と任務を遂行せざるを得ない隊員、ましてや、家族を巻き込み不安にさせる権利は、表現の自由と言えども、 許されるべきではない、私はそのように強く考えております。

(参考)
読売新聞社説
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20080412-OYT1T00589.htm
朝日新聞社説
http://www.asahi.com/paper/editorial20080412.html


 

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☆都会の論理★

私は、地方から上京して来た人間ですが、すでに、東京に住んでいる期間の方が長くなっております。その意味では、都会の人間なのですが、長年暮らした地方の実情というのものもよく理解しております。

東京の報道を見ると、「『無駄な』道路をつくるな」の大合唱です。
そして、どういった点をとらえて、『無駄な』と主張しているのかを見てみると、利用者が少ないとか、工事費が高いとか、単純な論点ばかりを主張しています。

しかし、道路の利用者が多くて、利益が見込めるのであれば、民間企業にやらせれば良いだけの話で、その点をとらえて、道路をつくるなというのは、本来おかしな話です。

また、工事費が高いと言う点も、今、作られている道路は、整備が遅れてきた中山間地の道路が多く、当然難工事になりますから、工事費が高くなるのは、ある意味当然のことなのです。

問題は、社会基盤整備として、その道路が真に必要かどうかを、見極めることができるかどうかということです。それには、政治的に中立な立場において、科学的見地から純粋に検討していく必要があります。

それを一回現地に行って、工事の様子をカメラに収め、「こんな田舎にこんな立派な道路」などと、さも誇ったかの如く世論を煽るような報道には、非常な違和感を覚えます。

以前に、一度ブログで書いたことがありますが、東京の人は、以下の事実をきちんと把握していますか。テレビのコメンテーターの発言を見ていると、あまりに無知な発言が多く、地方の実情を全くわかっていないと批判されても仕方ないと思います。

1.地方の幹線道路は、片側1車線の追い越し禁止道路が多く、閉鎖されると直ちに陸の孤島になってしまうという現状。しかも、鉄道等の代替輸送機関は皆無であるという事情。

2.十分な路側帯もなく、片側一車線閉鎖されるだけで、緊急車両の往来に重大な支障を及ぼしている現状。しかも、救急患者に対処できる病院まで、平時ですら1時間以上もかかる現状。

「東京の渋滞は、地方の比ではない。」

これは、確かにその通りです。しかし、東京の場合は、渋滞するような時には、車を使わなければ良いだけです。電車を利用出来るのだから。

地方は、車以外の代替輸送機関が存在していないのです。利便性の観点から、渋滞が問題だととらえている都会の人間と、生活必需の観点から、渋滞の危険性を問題にしている地方の人間とは、そもそも、議論している土台が違っています。

そのあたりのことを考えずに、都内を車で移動しているような『文化人』たちに、この問題を批判する資格はないと、私は考えております。

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☆暫定税率★

今日で、暫定税率がなくなり、一時的にガソリン価格が下落することになりそうです。
ただ、この問題は、25円ガソリンが安くなるかどうかという矮小化された問題として捉えるべきではありません。

先日、首相は一般財源化を表明しました。
これは、いろいろなところで肯定的に受け取られているようですが、本来、受益者負担、税の公平という観点からすれば、一般財源化はおかしな話です。

ガソリンは、その殆どが自動車の燃料として使用されています。したがって、ガソリン税を支払う人は、自動車を利用する人ということになります。とすれば、公平という観点からすると、自動車を利用する人が自動車の利用に伴って負担した税である以上、自動車関連の予算に利用するのが、本来の筋です。

ただ、自動車関連予算とは言っても、その範囲は多岐にわたります。例えば、自動車利用に伴って、排出されるCO2削減の為の予算等に使用されることは、現在の目的税の下でも、可能でしょう。

もちろん、集められた税の使い方に問題があるということについては、私も否定はいたしません。使われ方は徹底して、追及すべきです。しかし、自動車関連予算以外に使うとなると、受益者は国民全体、負担者が自動車利用者ということになり、税の根幹である公平性に著しく反することになります。

もし、自動車関連予算として利用しないというのであれば、むしろ、暫定税率そのものを廃止し、不足分は、消費税の増税で賄うというのが筋であると思います。

大衆迎合的に、一般財源化を叫ぶことは、長期的にみて大きな問題を残す可能性があると考えております。

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☆日銀総裁人事★

民主党の「財務省出身だから同意できない」という考えには、非常な違和感を感じております。
日銀の総裁は、高度な専門的かつ政治から独立した判断を行わなければなりません。

その日銀総裁を選ぶに際して、出身母体「だけ」を問題にするというのは、総裁人事を政争の具にしているとしか言いようがありません。

官僚出身者だから、改革ができない、または信用ができないというのでは、官僚が、「奴は東大法学部出身でないから、駄目だ。」と言ったり、あるいは、吸収合併した企業内で、「奴は、○○出身だから、駄目だ。」と言っているのと、全く同じレベルの話です。

それは、まさに派閥抗争、学歴偏重主義と同じレベルの話であって、非常に困難な難局を乗り切るという自覚がありません。

今のご時世に、こんな旧世代の対立を『国権の最高機関』で行われているというのは、全くもって情けない話だと思います。

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☆僧侶の自殺★

チベットでの抗議活動についての私の意見です。
状況分析については、色々な専門家がいらっしゃるので、敢えてこちらでは述べません。

ただ、一連の報道を見て、重要なポイントだと思った点について、一言述べさせていただきます。今回の抗議活動では、「僧侶が自殺を図った」という報道がなされていました。

この点が、意外と重要なのではないかと考えています。
僧侶が自殺を図るというのは、異常な事態です。

というのも、自殺は大罪です。自殺をすれば、地獄道に堕ちます。
その後、輪廻転生を繰り返したとしても、そう容易くは人間道に戻ることはできません。
とてつもなく、長い期間、終わりのない苦しみを受け続けることになります。

これは、実際に地獄が存在するか否かとは全く関係ありません。
信仰している人間にとっては、主観が客観ですから、現実に存在しているのです。

しかも、自殺を図ったのは僧侶です。地獄道がどれほどのものか誰よりもよく理解している人たちです。

その人たちが、もし、政府に対する抗議の意味で自殺を図ったということであれば、その意味の持つ重大さと覚悟は、通常の抗議の自殺とは、遙かにレベルの異なるものです。

私たちは、その行動から、現実に起こっているであろう事態の深刻さを理解する必要があるのではないかと思います。

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☆事故時の対応★

最近、変な風潮があって、事故時に謝らなくなりましたね。

ただ、今回のことがあって、はっきりしましたが、少なくとも人身事故の場合、怪我をさせた側は、自己の過失如何に関わらず、まず、即座に、「怪我をさせてしまって申し訳ない」と謝るべきですね。

というのも、一方のみが怪我をしているケースでは、警察の調べの対象になるのは、過失の割合に関わらず、怪我をさせた側ですから。

しかも、保険会社は、身体損害については、すぐに支払う意思を明確にしてきます。それは、怪我をしている人に治療費が支払われないとなると、保険会社自身、相当社会的にも非難されるでしょうし、損害については医療機関側が判断しますので、一般には必要以上の請求がなされることはないという理由からだと思います。

保険会社が支払うという姿勢で接してきますので、この場合、怪我をした側の普通の感覚としては、自分が被害者であるという意識を強く持つのが通常です。

また、警察も、怪我をした側の過失を、それほど強くは言いにくいということもあるかと思います。

もし、この場合、謝罪もなく、自分は悪くないと言い訳し始めると、怪我をした側は、とことんやってやると怒り心頭になるのは、当然だと思います。

そうなると、やれ告訴だの賠償だのと、話がますますややこしくなってくるでしょうね。

現実的に過失割合が問題となってくるのは、物損の賠償についてですから、「怪我をさせてしまって申し訳ない」と謝罪したことが、直接的に物損の責任を認めたとして、不利になるか言えば、そんなことはありません。

しかも、自己と相手方の過失割合がどうなるかは、双方の保険会社の話し合いの結果ですし、保険でカバーされるのであれば、別に過失割合が少々自分に不利になったところで、何の実害もありません。

むしろ、現実の実害としては、業務上過失傷害で起訴されたり、示談交渉が長引いてしまうことでしょう。

それなら、謝ってしまって、怪我をした人の気持ちを穏やかにして、穏便に解決する方がどう考えても、得策だと思います。

ちなみに、今回のケースでは、未だに謝罪の言葉はありません。

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☆閣議決定の見直し(つづき)★

そもそも、「就職難が起きている」「質が低下する」ということ自体、合格者を減らす理由にはなりません。

第一、「就職難」なんてものは、合格した人間達自身の問題なのですから、周りがとやかく言うような話ではありません。また、当事者にとってみれば、「就職難」などという問題よりも、合格出来ずに路頭に迷うことの方が心配なことだと思います。

しかしながら、よくよく考えてみると、試験に合格したというだけの理由で、すべての人間が職にありついていたということの方がおかしいわけです。実際に弁護士に仕事を依頼してみればわかりますが、事実ホントに酷いのがいますからね。

たとえば、期日や時間を守らない、お金にルーズという、知らない人が聞いたら嘘だろうと思うような話を非常によく耳にします。

かつて、そのような現状について、同世代の弁護士にどう思うかと聞いたことがあります。そのとき、彼は、「頼まれて仕方なくやっているのだから、それは仕方ないだろう。」と言っていました。

その話を聞いたときに、私は唖然とした記憶があります。「できないことは、引き受けない。」「引き受けた以上、どんなことがあっても納期は守る。」これは、ビジネスの世界では、当たり前のことです。

「お客さんがどうしてもっていうから。引き受けたんだけどさぁ。価格競争が激しくて仕入れが出来なかったよ。もう少し、待ってね。」などど、販売店が言ったとしたら、許されますか。

或いは、医者が、「どうしてもって言うから手術したんだけど、ちょうど疲れていたし、僕の能力を超えていたんで、手術が少しばかりうまくいかなかったけど、許してね。」と言ったとしたら、許されますか。

仕方なくやったのであろうが何であろうが、一旦引き受けた以上、最後まで責任をもつ、通常の社会において、極めて当たり前のことが当たり前と思われていなかったというのが、ある種この業界の問題点でもあったともいえます。

それに、「就職難」とは言っても、なにをもって「就職難」と言っているのか、私には理解出来ません。仮に、就職出来なかった弁護士が、弁護士としてではなく、普通に就職活動をしてみれば、就職出来たかという視点で見てみれば、その問題点が明らかになります。

おそらく、就職出来なかった弁護士は、それ以外の職種に職を求めたとしても、就職などは出来なかったでしょう。いくら頭が仮に良かったとしても、30歳近くになって、職歴もなく、法律以外の専門知識もなく、法律も実践から離れた教科書をひたすら読んでいただけ、しかも、挨拶すらまともにできない、そんな人材をどこの企業が採用しますか。

とはいえ、弁護士という資格を有している人材が、自分の会社の正社員として働いてくれるというのであれば、喜んで雇ってくれる会社はいくらでもあります。ただし、その場合、あくまで業務命令に従う「正社員」としてです。当然、給与も通常の社員に資格手当がつく程度というのは当たり前のことです。

このあたりの事情を、職を求める弁護士は全く理解できていません。何故、『たかが』試験に合格しただけの理由で、いきなり、役員待遇を受けて当然だと考えるのか、自分は他の人々より偉いと考えることができるのか、そのあたりの意識改革をしていかないと、職は見つかりませんし、仕事も紹介してもらえません。あたりまえのことです。

また、「質が低下する」という批判は、ギルド的体質そのものです。
まず、新規参入者が増えれば、悪いものも増えます。これは、当たり前です。
問題は、その比率が著しく増えたか否かという点です。その点については、しばらくしてみないと判断ができません。

現時点で言えることは、合格者を増やした、その結果、法律的能力に問題のある弁護士が増えた、この点は、判断出来るかもしれません。

しかし、法律的能力の序列と、弁護士としての仕事の能力の序列が、かならずしも一致するかというと、私には疑問があります。まず、法律的能力がある人間であっても、そもそも、社会の一般常識すら共有できていない人が沢山いますから。

合格者を増やして、「質が低下」したと言う為には、まず第一に、「法律的能力に問題のある弁護士が増えた」といえるのか、そして、第二に「法律的能力=弁護士としての仕事の能力」といえるのかを立証しなければなりません。

それが出来ない以上、「質が低下」したというのは、古い世代が若い世代を捕まえて、「最近の若い者は・・・。」と言っていることとなんら変わりません。単なる守旧派が新興勢力に対して、反発している、所詮その程度の言動にすぎないのですから。

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☆閣議決定の見直し★

「司法試験「年3千人」見直し 法務省、合格者減も選択肢」という記事が、朝日新聞に出ていました。
http://www.asahi.com/national/update/0124/TKY200801240483.html

「就職難が起きている」「質が低下する」と言ったことが、理由らしいですね。

そもそも、合格者数の増加は、諸外国と比較して、人口あたりの弁護士数が少なすぎるという現状を打開することにあったと思います。 それなら、何を今更という気もします。

一度、閣議決定がされたものを見直すとなると、閣議決定がされた当時と現在とを比較して、事情が大きく異なったり、 国民全体のニーズに大きな変化が生じたというような事情でもなければ、安易に変更すべきではありません。

閣議決定がなされたということは、政府の長期的な方針を打ち出したということですから、それを信頼して、あるいは前提として、 法科大学院が設置されたり、司法制度改革に関わる種々の改革が現在進行形として行われている訳です。

それを一閣僚が、自分の信条に反するからと言って、早々と見直しを指示するとは、非常に理解に苦しみます。

「就職難が起きている」「質が低下する」というような事情は、閣議決定された当時も言われていたことです。 それらのある種の弊害が生じることを含めた上で、長期的には必要だと当時の政府が判断し、法的安定性を確保するために、 あえて閣議決定という形をとったのではなかったでしょうか。

そうだとすると、見直すのであれば、少なくとも閣議決定当時予測出来なかった事情が生じたことを明確にしない限り、 閣議決定自体をおこなった当時の内閣が間違いを冒したということを、公言することになります。

政権交代が行われたのであればともかく、そうでない場合に、事情の変化がないにもかかわらず、安易に政策を翻すとなると、 自民党自体の『政権担当能力』が疑われてしまうことにもなりかねません。

 

 

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☆「能力がない。」★

前回とは、ある意味、逆の話かも知れません。
才能があることを自慢する人間は馬鹿だと思いますが、もっと馬鹿なのは、才能がないのを言い訳にする人間です。

何か仕事や学問において結果を出せないときに、「私、能力がないから・・・。」と言い訳をする人がよくいますが、 それは全く言い訳になりません。言い訳にならないことを言い訳にするという事自体が、すでに無意味な事なのですが・・・。

私の師匠が、昔、よく言っておりました。
「私、能力がないから。」という奴は、本当に「能力がない。」と。

私も、師匠の言うとおりだと思います。
ある能力が欠けていると自分で自覚しているのであれば、その欠けている能力を補う為の方法を、まずもって考えるべきです。その上で、 努力して欠点を克服していく、そのプロセスを経なければ、結果は出せません。

それを、やらずに、「能力がない。」と言い訳にしたり、ましてや、他人のせいにしたりするのは、どう考えても、「能力がない。」 と評価せざるをえません。

 

 

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☆泥臭い努力★

本年度で、私の学生生活も修了になります。
まだ、期末試験が終わっていませんので、正式に修了出来るかどうかは判りませんが、修了自体は、おそらく大丈夫だと思います。

それにしても、ほぼ10数年ぶりに大学へ戻って、自分よりも遙かに若い連中と一緒に勉強をしての感想ですが、最近の若い学生は、 ホントに真面目でよく勉強しています。

私が学生の頃など、大学で真面目に講義を受けていたりすると、「頭おかしいんじゃないの?」とマジに言われていました。それが、 今の時代だと、真面目にやらないでいたりすると、「大丈夫?」と、これまたマジに言われます。

大学が真面目に勉強をする場所になったというのは、非常に健全で良いことだと思いますね。

ただ、その一方で、未だに「自分は在学中、あまり勉強しなかったけれども、試験に合格した。」というようなことを言う、 私に言わせれば、ある意味、本当の馬鹿が存在しているというのも事実です。

「勉強しなかった」ことが、なんで自慢になるのか、それが全く理解出来ません。
自分が、優秀な才能を持っていることを自慢したいのでしょうか。
もし、そうであるとすれば、しつこいようですが、そいつは本当の馬鹿です。

仮に、その人が「優秀な才能」を持っていたとしても、それは、本人が築き上げたものではありません。それは、 親から遺伝によって引き継いだか、神から頂戴したものに過ぎないのです。

いうなれば、生まれながら偶々有していたに過ぎないものを、さもすごいことのように言っているだけのことです。それは、 金持ちのボンボンが、「僕の家は、お金持ちなんだ。すごいでしょ。」と言っていることと、なんらか変わらないのですから。

私は、単に才能を有しているだけの人間は、全く評価しません。才能を有している人間が、結果を出した、その出された結果について、 賞賛し尊敬しているのです。

もし、上記の人物が、「自分は、色々な事情から、勉強する時間をどうしても確保できなかった。でも、結果を出す為に、 効率的な学習方法を研究して、人一倍努力した。その結果、どうにかこうにか合格出来た。」と言えば、尊敬しますけどね。

要するに、私は、泥臭い努力を評価しない人々や風潮が、大嫌いなわけです。
偏屈かもしれませんが・・・。

 

 

 

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☆夫婦別姓論議について★

先日のゼミの中で、先生と討論をいたしました。
先生の方は、推進派の最たる方なのですが、割と冷静に私の意見をお聞き頂きました。

私は、基本的に、別姓には反対の立場です。
理由は、極めて明確で、別段戸籍上、別姓にせずとも、一般社会において通称使用を認めれば、特段の不都合はないだろうし、あるとしても、 それは主観的なものに過ぎないと考えるからです。

別姓論者の中には、筆頭者である男性の戸籍に入ることについての抵抗感があるようですが、筆頭者は男性である必要はないのですから、 夫婦の話し合いの中で、どちらが筆頭者になるかを決めれば良いだけのことです。

もし、相手の男性との間に話し合いがまとまらなければ、それこそ、ライフスタイルについての合意ができないのですから、 そもそも結婚生活がうまくいくのかどうかと、うがった見方をしてしまいます。

結婚後の姓は、ファミリーネームであって、家族は社会の最小構成団体です。
人のまとまりである団体である以上、その代表者は必要です。
その代表者を誰にするか、それは、その団体の構成員である家族で話し合って結論を導き出せば良いのではないでしょうか。

むろん、その決定過程において、家族以外の他人が口を挟むことはできません。

このようなことを言うと、必ず、当事者が良いと言っているのだから、認めてやれば良いのではないかと反論されます。

果たして、そうでしょうか。戸籍とは私的なものではなく、公的なものです。戸籍上家族とされることによって、 家族としての権利義務が公的に認められることになります。

それは、社会がこれこれの場合に家族として認めましょうという、ある種の要件です。法的な要件である以上、それを決めるのは、 国会の役割です。ですから、国民の大多数が賛成しない限り認めないと言ったとしても、なんら非難されることではありません。

このような意見に対しては、かなり感情的に過激に反応されます。しかし、冷静に考えて頂きたい、 個人の自由を声高に主張するのであれば、果たして同性愛者の婚姻を認めますか?

現状では、もちろん同性愛者の婚姻は認められていませんし、同性愛者の婚姻を認めることに関しては、別姓論者の多くも反対するしょう。

それは、突き詰めると、そのようなものは家族として認めないと社会が判断しているからに他なりません。

しかし、個人の自由と言うことであれば、同性愛者の婚姻を認めないことはおかしいのではないでしょうか。

こちらの方が、夫婦別姓論者よりも、よりマイノリティーであって、かつ、社会からの冷たい目を受けて差別されています。

夫婦別姓を貫く為に、事実婚を選択したとしても、現行法上は、内縁関係として、かなり法律婚に近い保護が受けられるようになりました。

しかしながら、同性愛者の家庭を保護するという立法は行われませんし、これからも行われることはないでしょう。

夫婦別姓の問題を、個人のライフスタイルという点から主張していくと、上記の問題に答えることは出来ません。

もっとも、私自身も強硬に夫婦別姓に反対しているのではなくて、社会の大多数がそれを認め、家族の一形態として許容するのであれば、 それも良いのではないかとも思います。

ただ、私が主張したいのは、夫婦のあり方を決めるのは、その個人であって、 それについて国家が口出しをするなという過激な論調に対して、一定の違和感と反発を抱いているというのが正直な所です。

 


 

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☆徐々に・・・★

明日、月曜の発表の資料は金曜日に作り上げて、私以外の発表担当者の方には、発表部分を私が勝手に割り振りました。

異議がある場合は、一応、言って下さいと言っていたのですが、誰からも異議がでないので割り振りはこれで確定です。  (^_^)b

私が、色々とやることが詰まっている関係上、かなり強引に進めてしまいました。
(でも、今日ようやく先日渡された生データの処理が終わりました。8時間かかりましたけど・・・。)

昔から、感じてはいることなのですが、全体の意見をまとめる必要がある場合には、誰かが音頭をとって、 議論の方向性とたたき台を作成した上で、自由な討論によって修正するという方法が一番早いように思います。

もちろん、音頭をとる人間が無能で、箸にも棒にもかからないような方向に議論を持って行くというのは論外ですが、 ある程度方向性が見えている場合には、行き先を決めて、進んでいくというのは、それ程誤っているとも思えません。

こういう進め方は、完全にある種のトップダウン型で、ベンチャー企業がガンガン進んで行く場合には、 主としてこのような形で行う場合が多いと思います。

ただ、この場合に気をつけなければならないことは、とにかく自由な討論ができる状態を維持することです。それが、 出来なくなった場合には、完全な独裁型となってしまい、修正が効かなくなってしまいます。

大学院に入って、色々な立場の人と議論をして思うのですが、自分一人で作り上げたものより、議論の結果作られたものの方が、 格段に良い物ができあがります。

絶対間違っていないと思っていたことでも、議論の中で、考えた事のなかった視点から見直してみると、 やはりおかしいと思うことも本当に良くあることです。

人の意見には、謙虚に耳を傾ける、これは、本当に大事な事だと思います。

私の大学院のO教授がよく仰っておられる事なのですが、「優秀になればなるほど、謙虚になっていく」というのは、 本当にその通りだと思います。

そんなことを、今日はふと考えたりもしました。

 

 

 

 

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☆テロ対策★

外国人の入国審査で、指紋の読み取りが始まったようです。
テロ対策ということなのですが、出入国の管理は、きちんとやって頂きたいと思います。

いつも、この手のことが行われるようになると、条件反射的にプライバシー侵害だとか、国家による監視だとか言われます。

しかし、たとえ国家が個人情報を取得したとしても、それが適切に管理されている限りは、別段、何の問題もないはずです。

問題は、情報の適切な管理がきちんとなされるかです。
その点についての信用がないというのが、やはり問題なのでしょう。

ただ、個人的には、国民の生命・財産を守る為に、国家がある程度の個人情報を取得するのは、やむをえないし、 むしろ必要なことだとすら思います。

それよりも、私が危惧するのは、むしろ日本の情報収集能力のなさです。

在外公館の人間が、初めて情報に接したのがマスコミ報道だった、ということの方が、余程問題だと思うのですが・・・。

 

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☆したたかな誠実さ★

今日の講義で最終回になる先生が最後に仰った言葉です。

「したたかな誠実さと的確な相場観」

ものすごく、納得しました。
というより、これがビジネス及び社会における人間関係を構築する上での重要な事項を端的に表しています。

以前、私は、ブログのなかで、「できないことの言い訳を考えるくらいなら出来る方法を考えるべきである」と主張したことがあります。

そのことと、先生のお言葉には相通じるものがあります。

要するに、人と人との間の信頼関係というものは、極論すると、その人が「できません。」と言ったときに、その言葉に納得し、理解出来るかということに帰着します。

本当に信頼されているのであれば、「できません。」と言ったときに、こいつができないのだから本当に無理なのだろう、そうであれば、仕方ないと思ってくれるかどうかです。

人間は完全ではありません。どんなに努力をしても、出来ないことはあります。それを、出来ないと言ったときに、当事者が理解してくれるかどうか、それは、まさに、その人を真に信頼しているかどうかにかかってくるものです。

そのように、納得してくれるかどうかは、普段からの心がけ、すなわち、常に出来る方法を考えているかどうか、その人が、自分の為に誠心誠意尽くしてくれているかどうかにかかってきます。

無理なことを無理と言って納得してもらう、それができれば真の信頼関係を構築出来たと言えるのではないでしょうか。

*ちょっと、酔っぱらった状態で書いていますので、後日書き直します。

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☆性犯罪と刑罰★

就職活動の女子大生にわいせつ行為をはたらいた元銀行員に実刑判決がくだったとのことです。
http://www.asahi.com/national/update/1029/OSK200710290050.html

私は、実刑は当然だと思っています。
特に、性犯罪の加害者に対しては、情状酌量の余地はありません。

財産犯であれば、出来心ということもあるかも知れませんし、貧困故の犯罪と言う可能性もないわけではありませんので、すべてを重罰に処すべきとは必ずしも思いません。

また、財産犯の場合には、その物に対する被害者の個人的な思い入れがあると言う点を除けば、基本的に、事後回復も不可能ではありません。

これに対して、性犯罪の場合には、受けた傷の大きさからトラウマとなったり、その後の異性関係に対してまでも大きな影響を及ぼしてしまいます。

そのような事情を考えると、厳罰をもって望むべきであると思います。
極論すれば、性犯罪の加害者に対しては、基本的には去勢すべきだとすら思っております。

私自身、犯罪の被害者です。
2人組の強盗に背後から襲われ、気絶させられた経験があります。

その経験から言わせていただければ、犯罪の被害に一度遭うと、また突然襲われるのではないかという恐怖感に常に駆られます。夜中に、そのときの様子が夢に出てきて、突然、はっとして起きあがるなど、通常の生活に戻るまでには、かなりの期間を要します。

ある意味、屈強な男である私ですら、そんな状態です。ましてや、抵抗する力のない女性であれば、そのときの恐怖感というものは、筆舌に尽くしがたいものがあるのではないかと思います。

男性の中には、冗談で「減るものでもないし」などと言う人もいますが、冗談でもそのようなことは口にすべきではありません。性犯罪の被害者は、貞操侵害の側面もさることながら、それ以上に、自己の生命の危険を感じているのです。

そのような観点からすれば、被害女性の男性関係が派手であったと言う事情は、性行為に対する合意があったか否かと言う点で争うのであれば、必要かもしれませんが、それ以外の点、例えば、被害者の落ち度を主張しようとするのであれば、全く無意味かつ不当な主張であると言わざるをえません。

なぜなら、男性関係が派手であると言うことと、生命の危険を感じるということとの間には、何の関係もありませんから。

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☆学力テスト★

「全国学力テスト」の結果を、市町村別や学校別に公表すべきでないというのが、専門家会議の意見らしい。

http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20060325ur01.htm

その理由は、「地域や学校の序列化や競争過熱が懸念されるため」であるとのことらしい。

意味がわからない。「地域や学校の序列化や競争」が生じて、何が悪い。
競争することによって、互いに良いところを取り入れて、教育の水準が向上するのではないか。

おそらく、言いたいことは、学校や地域の価値が、学力テストだけで判断されてしまうことに対する危惧感であろう。

確かに、以前も偏差値教育に対する批判があったが、そこでの真の問題は、偏差値=人間の価値 とみなされる風潮があった事である。偏差値自体が悪いものではない。

序列=悪 と言う考えは、極めて短絡的であって、スポーツにしろ、何にしろ競争である以上、順位は必ずつけられる。順位がつけられるからこそ、努力もするのである。努力なきところには、何の向上もあり得ない。

むしろ、今まで、学校間を比較するものとして、有名大学への進学率くらいしか、情報がなかったことの方が問題である。

学力テストの結果を公表するかどうかを議論する前に、もっと、様々な結果を公表するようにすればよいのではないか。たとえば、多くのスポーツ選手を輩出したランキングや、英検合格率ランキング等々、なんでもかまわない、とにかく、色々な観点から、ランキングをつけて、どんどん情報公開をして、競争をしていくべきである。

中には、逆に、教師の不祥事ランキングというのもあっても良いだろう。

とにかく、特に国公立の場合、国民の税金で運営されているのだから、「出資者」である国民に有利不利を含めて、情報を公開するのは、当たり前のことである。

現場の教員が、自分たちの仕事に対して、外部からの評価を拒絶する正当な理由はなんら存在しない。公務員である以上、公僕であることを強く認識して頂きたいと思う。

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☆二つのタイプ★

与えられた仕事の処理の仕方として、二つのタイプの人がいます。
一つは、「できない理由を考える人」、もう一つは、「できる方法を考える人」です。

たとえば、締め切りまでの時間が残り僅かの仕事を頼まれた場合に、締め切りになる前から、「できない理由を考える」人と、普通にやっていたのでは終わらないから、どうにかして、「できる方法を考える」人とがいます。

無論、尊敬できる人は後者です。
始めから、無理だ駄目だとあきらめてしまっては、すべてはそこでおしまいですからね。
ただ、そうは言っても、出来る方法が見つからない場合もあります。

そのときでも、「出来る方法を考える」という姿勢で仕事に向かっていると、そのときは出来なくても、次の機会には、出来る方法が見つかることもあります。結果は同じでも、長い目で見れば、結論が違ってくるものです。

私も、常に「出来る方法を考える」という姿勢で、今後もぶつかっていこうと思っております。

PS. 偉そうなことを言っていますが、実のところ、「出来る方法を考える」と優秀な他人の顔が浮かぶのも事実です。いやぁ、頼める友人がいるということも、能力のうちですから・・・ねぇ。 (^_^;)  

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☆弁護士のあり方★

 最近、ちょっと弁護士という者のあり方について、色々と考えたりしていることがあります。(直接、私の仕事とは関係ないと言ってしまえば、それまでですが・・・。)

 弁護士は、依頼人の為に活動しなければならない、これは、当然に一つの正しい姿ではあります。

 ただ同時に、社会正義という側面を考えると、例えば訴訟が終わったから、仕事はそれで終わり、後は知らんということで果たして良いのかということです。

 具体的に言うと、例えば、弁護士が依頼人の為に尽力して、執行猶予の判決を勝ち取ったとします。これは、確かに弁護士としては最高の結果で、これ以上のものはないとも言えます。

 ただ、この後、この依頼人がまた再犯を犯してしまった場合、弁護士としては、どう考えたら良いのかなぁということです。

 むろん、実刑を回避したのは、裁判所ですから、最終的な責任は裁判所が負うと言ってしまえば、その通りなのですが、弁護士としても、果たして無関係と言ってしまっても良いものかどうか、疑問がないわけではありません。

 しかし、かといって、依頼人の更正にまで、弁護士が関わることは、刑事弁護をやるだけでも大変な負担であることを考えると、いくらなんでも、無理なのではないかとも正直思ったりもします。

 ただ、逆に言うと、更正に責任が持てないとしたら、訴訟において、被告人の更正可能性について声高に主張するのは、どうなのかなぁ、自分が責任を持てないことを主張してしまうのは、筋違いなのではないかとも思ったりもしています。

 特に、これが、再犯の可能性の高い性犯罪者のケースを考えると、再犯の犠牲になった人にしてみれば、訴訟記録中の弁護士の主張を見たときにどう思うか、そのあたりのことを考えると、弁護士は、訴訟において主張する事実についても、後々のことを考えて主張すべきではないかとも考えたりしているところです。

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☆朝日・産経「紙上罵倒」合戦★

『沖縄集会「11万人」報道 朝日・産経「紙上罵倒」合戦』という記事がネットに出ていました。
http://www.j-cast.com/2007/10/05012014.html

大手マスコミが、一つの論点に関して、論じ合うのは非常に面白いです。
以前は、社説でもやり合っていましたが、こういう形での議論はどんどんやっていただきたいと思います。

産経が朝日に噛みついても、朝日新聞の方が無視していた時代も過去にはありましたが、最近は、朝日新聞もきちんと応じるようになってきましたね。

朝日新聞も謙虚になったというか、最近の自分たちの影響力の低下を無視できなくなったのかもしれません。

ただ、産経も主催者発表と断ったとは言いながら、自分たちも11万人と報道したのですから、それ程、偉そうなことが言えるのかとも思います。

それにしても、今回の件で、はっきりとしたのは、大手のマスコミの出す数字もそのまま信用してはいけないなぁということです。会場の面積や交通機関の状況を少し調べれば、主催者発表の数字が過大であることなど、すぐにでもわかったでしょうに。

日本国内の沖縄ですら、この程度の調査能力しかないのですから、外国で起こったことに関しての報道については、常に疑念の念をもって、自身でも一応検証してみないと、事実かどうかは怪しいところです。ましてや、それが、過去の事件となれば、なおさら・・・でしょうね。

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☆文科省が見直し検討★

結局、検定意見の見直しがされそう。
全く、無責任極